昭和41年01月12日  夜の御理解



  助けられるということ、助けて下さるということ、神さんが、神様が助けて下さるということ、で私共が助けられるということは、どう言う様な事になってきたら、神様も助けて下さりよいのか、また私共が助かるのかと。そこんところをですね、とによく分からせて頂かなければ、言わば助かりかかって助からず、救われかかっておりながら救われず、そういう例えばジレンマというのが、私共にあるなら神様にもそういう、神様のジレンマがあろうと。
 救われかかっておるのに救われない、「はぁこの人ごそ助かってくれ」とこう思ってござるのに、助かられないというのですから、ね。私共もそうでしょう、助けて頂きたいと、ね、ですから助けられかかっているのにも係らず、なにかがまたその助かることの出来ないことで終わってしまったら、神様もつまんなさるが、こちらもまたつまらん。またそれを言うなら、神様の悲しみでもありゃ私共の悲しみでもあるということになる。だからどうでも一つ助けて頂かなければ、どうでも救うて頂かなければ、ね。
  私共がいつも申しますように、めぐりの世の中の、いわゆる難儀というのは、難儀を感じるというのは、ま、結局めぐりを感じるのですけれども、まぁ言うならば、おぼれておる私達を、こう神様が救いの綱をかけて下さる。御神縁という綱をかけて下さって、神様が陰でよせて下さる、ね、かったぐり寄せて下さるけれども、私共の助かりたいという意欲がなからなければ、言わば私共が、例えたぐりよせられたら、私共のそへりに手をかけて、そして上がろうとする。
 神様が上から引き上げて下さろうとするその二つの働きによって、私共が助かることが出来るのです。ね、神様も一生懸命力んで助けて下さろうとしておる。もう船のふちに手をかけておる、さか頑張りぞというところで、私共がそのめぐりの、深さというかね、濡れた着物がその重いために、どうしても上がりきらんでまた、ずぶずぶとして、沈んで行くと言う様事なんかは、私共もかなわん事であると同時に、神様もお悲しいことであろうとこう思うのです。ね、一つ助からんとけません。
  御教えの中に人を殺すということは、ま、大変な罪がある罪になること。けれども形に見えて人を殺したり傷つけたりするということは、それぞれの、やはりおしおきにあうという事によって、その罪は言わば無くなるのだけれど、心で「心で殺すのが、重い罪ぞ」とこう仰る、「神が見ておる」とこう、心で殺す心で傷つける。ね、人情さた、いわゆる心で傷つけるというだけでも、やはり罪になるのですから、人の心を殺してしまうという事は、いよいよこれは大きな罪だ、ということになるのですけれど。
 私共信心さして頂いておる者はいつもその、傷つけたり殺されたりしておるだけではなくてです、傷つけたり殺したりしておるようなことはないだろうかと、一遍、思うてみなければいけんですね。そこでですね、私は本当に助かるということは一つ、本気で一つそのこっ、そうようなことになろうという覚悟がいるですね。それはどういう事かと言うと、例えて言うならば、「人を頼らんぞ」と言う様な気持ちになること。「人には頼らん」と、人は人にあてはせんと、ね。
 ならそれなら自分の我力で力でという、それも、実際に自分の力というものも、力んでみてから分かることは、力みだけであって実際は、何も出来ないという事。そこで神様より他に、救うて下さる助けて下さる、言わばお頼りするということは、神様より他にないという事になる、その事をですね、私共は分からにゃいけんです、ね。 人を頼りにするということは何故いけんかと言うとですね、必ず人を頼りにするという事は、人を傷つけ、人を殺すです、ね。
 頼ることが悪いのじゃない、頼ることによって必ず、人が傷つけられたり、殺されたりするんです、ね。私は今まで、私の考え方の中に、大変な間違いを、まぁ今日感じておるんですけれども、とにかくあんた方がね、親先生、神様任せという事は親先生任せなんだ、親先生任せ、私が言う通りになってそれがおかげ頂くとこう、私は言うてきたんです。成程それはおかげ頂くです。
 けれどもそれはどこまでもです、親先生任せになろうと、親先生任せになろうという、皆さんの願いというものがあっての、それじゃなからなければならないと言う事。それを私はですね、皆さんを強引に私任せにしようとした所にです、皆さんに傷つけるようなことがありゃあしなかっただろうかと。例えば親先生に、言わば傷つけよう、殺そうとしておるんですから、殺されまいとする、言わば働きがあるわけなんです、ね。
 例えて言うなら、久富先生なら久富先生に、私が、久富先生、ああやってほしい、こうあってほしいとこう私が思う、だから「久富先生ああして下さいこうして下さい」と言うと、ですから本当に親先生任せにならせて頂こうと、発心してござる時には、それは、先生が徳を受けられることになるだろうけれどもです、ね、そういう気持ちがない時に、なったら、形の上では私任せになっておられても、抵抗を感じておられる。そっから殺されまいとして逃げておられる、ね。
 あれは私任せになるという事は、私の前に、言わば皆さんが、一切を空しゅうすることですから、もうあれは私の前に死んでしまう事なんです。それを私が殺すのと、皆さんの方から空しゅうするのというのは、もう大変な違いであるという事です。この辺を皆さん、今日は分かって頂きたいと思う、ね。例えば私がもうほんとに久富さんはもう本当に、自分をいつも空しゅうして、私の為に奉仕して下さると、ね。
 ですからもう本当に親先生の為ならもう一切親先生任せになるとこう、言うておられる時に、またそれをなさっておられる時には、久富繁雄は空しゅうなっておる時だから、もうおかげも受けやすうい場にあるわけなんです。ところが今度は私が「繁雄さんこうして下さい、ああせにゃいかんよ」って言うてその、私が空しゅうさせようとする時には、これは私が繁雄さんを殺しておることになるんです。
 ですからその殺しておるのですから、片一方も殺されまいとする抵抗が必ずあるのであり、私としても、殺した罪という罪に捕えない訳にはいかんわけになるです。その辺をちょっと皆さん良く考えられれば分かるのですよ。「自分の子供だから」と、例えばなら、愛子なら愛子、豊美なら豊美をです、ね、私の思い通りに、しようとこうする事がすでに間違いなんです。
 けれどもそんなら豊美なり愛子なりがです、「もう本当にお父さん任せになろう」「お父さんの言われる事ならもう本当に、右と言われりゃぁ右、左と言やぁ左、に本気でならせて頂こう」としておる時に、ならば、これは本人達がおかげを受ける事であろう、本人達が必ず徳を受ける事であろうとこう。ところが「お前達は、私の信心の、言わば弟子なら弟子でもあると同時に、私肉親の子供でもあるのだから。
 お父さん任せにならにゃならん」と言うて、私が子供達を無理に、うんなら、私の思う通りにする時は、私はなら、愛子を豊美を殺しておる時なんです。いくら親子でも殺したら、それこそ殺しの罪というものは、私が受けなければならんということ、それでうんなら、私は愛子をあてにしてはならんのであり、豊美をあてにしてはならんのでありと。と言うてもやはり、縋ってもらわねばならんのだから、そこら辺に非常にデリケートな難しいもんがあるんですね、それで私は、あてにはしない、ね。
  まあこの辺のところをですね、私は皆さんが分られなければ、今日私が言う、本当に神様が助けて下さる、という事にはなってこないとこう思う。第一ですね、自分が助かるという事はどういう事かと言うと、全然人やら物やらに頼らない自分になりきれた時に、私はもう助かっておる時です。人に頼っておる時には、ね、頼ってその、頼った通りにしてくれればいいのだけれども、してくれない時には、もうそこに助かりはないのですから、ね。誰にも頼らない、自分一人で行く。
 なら、これは行けそうであって、実は自分一人でも行けない。頼るものは神様より他にない、神様に一心に縋って縋って縋りぬいて行くというところにです、私共の助かりがある。縋って縋って縋り貫くところに、神様の働きというものがです、私共いよいよ救うて下さる助けて下さろうとする働きというものが、ぐんぐん感じられる、おかげになってくる。私は今まで、なるほど皆さんがここでおかげを受けられるお徳を受けられる。というように、私が強引に無理を言う、それを素直に聞いて下さる。
 言うならば自分を空しゅうして聞いて下さる。だからそういう人達は助かった。けれども私はこの人を、私任せでなければ助からんと思うて、本気でその人をその私任せにしようとする、そこに片一方がその気でないから、いつも私に傷つけられたり殺されたりする。抵抗を感じておる、それでは、私も傷つける罪にとわれ、殺す罪にとわれ、本人達も助かる事の出きない、ということになってくるんですね。
  そういう事を、十五年間の事をじっと振り返ってみると、もうそういう例がたくさんあったですね。本当にこの人は私の言う通りにせにゃんおかげ頂かん、確かにそれは間違いがない。けれども本人がその心が出けていない者を、私まかせにしようとするところに、これは大変尊いことの教導のようであって、私はその人に傷つける事になる。ね、又は殺す事になる。
 例えばうんなら、久保山先生なら「久保山先生、あんたそげなんことでは助からんよ、私が言う通りにせにゃおかげ頂かんよ」と、「はぁそうですね」って素直に言うて下さりゃぁ、私も助かりゃ久保山先生も助かられるとこう思う、ところが「あなたの思いにしたらよかろうばってん、そんなことにはいかん」と言うて嫌いに嫌いに心に態度に出されるところにです、私に抵抗を感じなさる、私はいよいよ不愉快な思いをしなければならない、そこに久保山豊の助かりはもう、ありえない。
 私はそこに久保山豊を傷つけたという、私は罪にとわれるのですよ。ね、だからいかに私自身が信心を、もっともっと高めさせて頂いてね、「もう親先生の仰る通りに、ならせて頂いたぞ」と相手に、そう思い込ませてしまえる程の、高められた私になることを、私は専念しなければならんのであり、皆さんはそこんところをですたいね。 傷つけられたり殺されたりしながら、自分を空しゅうするのでは、ほんなこっちゃぁないから、泣く泣くではいけんから、そこんところを喜びを持って自分を空しゅうしよう。
 喜びを持って、喜びを持って、自分を空しゅうすることに、努力精進に勤めさせてもらうということいなってくる時にです、取り次ぎをさしてもらう、私も助かることならば、その人達も徳を受けて助かる事になるのです、だから私に、言わば殺傷罪を、その犯させっ、犯させないような、皆さんになって頂く事が第一なんだけれど、私としてもだから、強引に、例えば皆さんを、私任せにしようという教導は、こりゃぁ間違いだったなぁと、十五年間私はそのことは一つも気がつかなかったけれども。
 ずいぶん傷つき、ずいぶん殺して来た事だろうとこう思います。ね、これからは、言わば、本当に傷つけるっ、傷つけると言うてもですね、皆さんがです、本気で親先生任せにならせて頂くということに、一つ喜びを持って、出来る信心が出来なさった時です、私が皆さんを教導するというか、私任せに皆さんをするという時に、私の助かり皆さんの助かりがある。ここに完全に、言わば船の上に、こう、助け上げて頂けれるところの、おかげが頂けるのだとこう思うのです。
  救われるということ、ね、救うということ、助けられるということ、助けるということ、それはそう言う様な事だと思うですね。私はもう助けるということはもう強引にでもです、もうとにかく船の上に、私が引っ張り上げてからでも助けるという、その事がそうかと思うたところがです、ね、ところがうんなら私一人の力で、上に上げることは出来ないということ、本人も助かりたい、本気で自分もです、船のへりを手をかけて、自分でも上がるというその勤め、自分から求めてです、私を空しゅうする。
 親先生まかせならせて頂くという、願いを持って初めて、助かる事が出来るということです。ここんところを一つすっきり、おかげにしていかなければならんということを、思うですね。皆さん、説明不足ですから分かられないならばです、このことはよぉく練って下さい。そしてこの事はおりあるごとに、あの自分の体験からです。そのぉまたその問題を通してです、ここんところを、分からしてもろうたら、ね、相手から傷つけられんで済み、殺されんで済み、また傷つけんで済み、殺さんで済む様なおかげ。
 ここんところをはっきり、言わば「心で殺す罪は神が見ておるぞ」とこう仰る、心で殺すということ、ね、その罪によって、その罪を問われる事になったら、私共の助かりということはもう永遠にないことになる。いわゆる、言わば、注進懲役にでも行かなければならんことになって、なり兼ねないのですよ、ね、ですからここんところをです、本気で一つ助かるということ、助けられるということ、救われるということ、救う神様の立場から言うなら救うということがです。
 どう言う様なことでおありになるかと、どういうことであるかと。それは私共の、そこの信心がです、ね、傷つけず殺さず、又は傷つけられず殺されず、という信心、それにはね、あぁ人を頼ると、あぁあってほしいこうあってもらいたいと、言った様なものではなくて、ただ、自分自身の助かりだけをです、自分の力ではなくて、神様に縋ってそこをさして頂くことだと私は思うですね。
      どうぞ。